HISTORY 6
2015年11月26日
皆さん、こんにちは。
営業部の大竹です!
いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。
こちらのHISTORYはただ今連作中となっております!
今までの記事をまず、ご紹介いたしますね!
第1話 は コチラ
第2話 は コチラ
第3話 は コチラ
第4話 は コチラ
第5話 は コチラ
第6話 は この記事です。
さて、今回は、日本を今の方向へ大きく大転換させるきっかけとなった
『第二次世界大戦』中の丸茂電機について触れてゆきたいと思います。
折しも本年は戦後70年を数える節目の年であり、当時の劇場界を振り返りながら
弊社の第二次世界大戦についてお話できればと思います。
【 第二次世界大戦 】
昭和10年(1935年)から昭和15年(1940年)の間は
劇場の新設や改修の業務も多く、順調であり弊社社員も50名を超えての大所帯となりつつあった。
製品的にも、各劇場からもその優秀性を認められていたU型調光器だけでなく、
現在も使用されているBC型(ボーダーライト)やT-1型(スポットライト)などの原型も
製品として多く出荷されるようになっており、あらゆる面で充実していた時期であった。
翌16年12月太平洋戦争が始まると国民の政治、経済はもちろん、思想、
私生活に渡って今までの生活から戦争中心の生活への変化を余儀なくされることとなった。
当社は当時NHKが世田谷区の砧に作ったテレビジョン試験用の照明設備などを手掛けていたが
それだけではなく、各種訓練用のパノラマに使用する照明器具の製作や抵抗器の製作も請け負うこととなった。
戦時中とはいえ、まだ多摩川あたりはのどかな田園風景が多くみられたことから
砧へ打合せに向かう道などはピクニックのような気持ちで歩ける日もあったという。
しかし、戦況が次第に激しくなってくると都市部の空襲も日を追って多くなっていった。
昭和19年11月以降東京は106回ほどの空襲を受けたといわれている。
それに伴い強制疎開などが行われ国民唯一の娯楽期間であった劇場や映画館も閉鎖、軍需工場となった。
そのため、保守業務でわずかに続いていた舞台照明の仕事さえもとうとう全くなくなってしまった。
そればかりか、戦争の激化に伴い所員は次々と召集され、
大陸や南方戦線へと旅立つこととなり、わずか数名の所員を残すばかりとなった。
そしてついに、昭和20年度重なる東京への空襲の結果、会社施設はすべて灰燼と化し、
当社の機能は完全に停止してしまったのだった。