HISTORY 3
2015年5月26日
皆さん、こんにちは。
営業部の大竹です。
弊社ブログをいつもお読みくださいましてありがとうございます。
当ブログの連載企画舞台照明と弊社の歴史も第3回目となりました!
今回は激動の時代、その波に乗りながらこの時代に次々に建設された劇場の照明設備に
まつわるお話です。
当時の弊社勤務の人間の心意気を少しでも感じていただけたら嬉しいです。
第一弾はコチラ
第二弾はコチラ
【 昭和の勢い 】
関東大震災が及ぼした影響は物質的な影響のみならず、都市生活そのものにまで及ぶこととなった。
とりわけ都市部の生活条件は大きく変化を遂げ、
盛り場は下町から山の手に移り、銀座・新宿・渋谷などの発展と共に各地に劇場が次々と建設された。
その数に比例するかのように劇場設備も進化を遂げていったのが昭和初期の出来事である。
劇場における舞台照明設備もその流れから漏れることなく進化していった。
丸茂富治郎の熱意と努力の賜物である。
当時、演劇における舞台照明は
「凡ソ演劇ノ近代的演出ニ於テ照明ガ重要ナル役割ヲ受持ツ事ハ明カデアリマシテ、舞台上ノ調和セル配光ト柔カナル彩光ノ變化(変化)ガ進歩セル調光器設備ト其巧妙ナル操作トノ所産デアルト言フ事モ亦認メ得ル處デアリマス」
と、当時の弊社の“型録”(注:カタログです 笑)に記載される程重要視されており、
「一人ノ操縦者ニヨリ容易ニ且ツ確実ニ舞台照明ノ総テヲ操作シ得ル様構造セル装置」
であるNW型金属抵抗器は、全く新しい発想の装置として昭和3年(1928年)開場の明治座に納入された。
明治座は、その名の通り明治6年に喜昇座として開場し、久松座、千歳座と改築の度に名前を変え、
昭和3年に明治座として再開場した。
杮落しは「番町皿屋敷」他であった。
その様子を観劇していた都新聞の記者は「舞台飾りや照明設備の進んだことは驚くばかりである」と評した
とのことだ。
この全く新しいNW型金属抵抗器は明治座を皮切りに歌舞伎座、東京劇場、新宿第一劇場、浅草常磐座、
大阪歌舞伎座、京都南座、名古屋御園座に配置された。
これらの劇場では舞台照明設備そのものもかなり改善されており、制限のあった電力の供給から電気の設備容量も増え、
現在でも一般的な配線方式として採用されている“3相4線”式が東京劇場では取り入れられたほか、
新設の劇場にはフロントライティングの設備ができ、ボーダーライト、フットライトはコンパートメント(仕切式)となった。
また弊社のスポットライトは電球の位置や方向の調整をスポットライトの外部から行うような仕様が通常となった。
昭和初期のパッチは抵抗器から配電盤で小分けしてパッチする方式をとっており、
配電盤の裏には捨て球用のソケットが設備されていた。
抵抗用のニクロム線は焼けやすかったのでワイヤーやブラシなどと共に常に常備してあり、
いつでも取替られる体制をとっていた。
照明操作そのものも4~5名で操作していたと聞いているが中々の忙しさであったそうだ。
しかしながら、そのまた一昔前の時代を思えばかかる人力は少なくなったのかもしれない。
続く
(昭和初期のカタログです。
今でもなじみ深い形のスポットライトも掲載されていますね。)