HISTORY4 -東京宝塚劇場の建設と新型調光器-
2015年7月31日
皆さん、こんにちは!
営業部の大竹です!
早速ですが、連載企画続編をお楽しみくださいませ(^^)
尚、今までの歴史はコチラをごらんくださいね
当社の事業・業績に大きな影響をもたらす出来事に宝塚唱歌隊(現宝塚歌劇団)の結成がある。
阪急電鉄の前身である箕面有馬電鉄が電鉄の振興策として社長小林一三氏によって作られた少女ばかりの音楽隊『宝塚唱歌隊』は、
人気を博し『宝塚少女歌劇団』となった。
少女歌劇団は大正3年(1914年)にプールを改造して作られたパラダイス劇場での第1回記念公演を皮切りに定期的な公演を行っていた。
その華やかさ、清廉さは広く大衆の心をつかみ、観客は増加。
それに伴い、少女歌劇団も組分で公演を行うなど発展を見せていた。
昭和に入ると日本初のレビューショー『モン・パリ』を上演。幕無し16場のスピーディーな展開は斬新そのものであり
観客の評判を呼び、宝塚レビューの時代の幕開けとなった。
数々の名作は女学生からマダムまで幅広い層の人々を夢の世界へと誘っていった。
その勢いに乗るように、東京宝塚劇場の建設が計画されることとなった。
この劇場が宝塚少女歌劇団の東京進出の拠点となる為、
阪急電鉄の劇場技術者である井上正雄氏を中心としたスタッフは約1年間にわたり、
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツと渡り歩き欧米の優れた劇場を模範として基本設計を行った。
従来の歌舞伎のような絵巻物式舞台面を観客に見せる額縁舞台の開口とは対照的な大レビュー劇場の建設である。
当然ながら舞台照明設備も画期的方式を採用することとなり当時、
弊社で試作をしていた“多分岐式調光変圧器U型”が井上氏の目に留まり採用されることとなった。
その納入までの道のりを創業者丸茂富治郎は『日本照明家協議会会報』(昭和39年12月号)にてこう語っている。
「変圧式調光器を舞台に使えるように工夫して工場内で試作を続け、試作がほとんど完成した時に東京宝塚劇場の建設が始まって井上さんの大英断でその方式の採用が決まってご下命を得たのですが、私としては商売的には全く考えず只自分の考案が実った喜びと必ず立派なものを作り上げなければならないという責任とで緊張して試作品を詳しく調べ設計を再三調査して、もうこれなら大丈夫と自分で自分に言い聞かせて安心して製作にとりかかり、納期すれすれに完成することが出来た。東京宝塚劇場の此の多分岐調光変圧器装置は、ドイツがこれと異なる方式の多分岐式調光変圧器を製作したのより、私の方が二、三年早かった事は文献並びに当時実際に欧米を回ってこられた井上さんの実証によって知らせて頂いた。」