舞台裏

HISTORY 8

2016年6月2日

皆さん、こんにちは!

いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。

前回までは創業から第二次世界大戦を経て、すべてを失った弊社が、

技術者の記憶、焼け残った劇場の設備をスケッチして準備をし、焼け残った材料や

物資をはるばる山梨県の小屋に運びこみ

再起への新たな一歩を踏み出したところまでをお読みいただきました。

第1話 は コチラ

第2話 は コチラ

第3話 は コチラ

第4話 は コチラ

第5話 は コチラ

第6話 は コチラ

第7話 は コチラ

そして戦後復興の第8話この記事です。

 

終戦より数年を経た昭和24年、

戦時中の空襲により焼失していた歌舞伎座再建の話が立ち上がり

吉田五十八氏の設計の元、事業が開始された。

当社も舞台照明設備を担当することになったがこの第四期歌舞伎座が開場する

昭和26年までの間に朝鮮動乱が勃発し、たちまちのうちに資材は高騰、

材料不足で市場は混乱を極めることとなった。

工事関係の会社でも中には倒産する会社もあり、夜間は電線泥棒などにも

気をつけねばならなかった。

この時の歌舞伎座の設備は負荷回路254回路で、調光回路20A120回路、

30A20回路、40A20回路。

歌舞伎座操作把手盤

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真は第四期歌舞伎座の調光設備の一部です。)

この設備仕様で平成22年第五期歌舞伎座(現歌舞伎座)リニューアル開始までは

ほぼそのままの仕様で使われた。

昭和26年1月1日杮落しの日をなんとか迎えられると当社の再出発も軌道に乗ったと

いえるようになった。

昭和26年には三越劇場の照明設備を施工した。

当時はまだまだ劇場がない時代。

しかもデパートの文化事業の一環として本格的な劇場が出来たのは

三越劇場が初めてでこの劇場建設は世間の評判を呼ぶこととなり、現在に至るまで

新劇を中心に多くの公演が行われている。

昭和27年4月にはサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が

発効され、連合国の日本占領に終止符が打たれた。

この昭和20年代後半から日本全国の劇場復興や新設が進み当社製品が全国各地の

ホールへと納品されてゆくこととなる。

その流れを追うように弊社もその土地に根差した仕事をと日本各地域に営業所を開設、

各地でのきめ細やかな対応を現在も継続している。

さらに、昭和31年、日本は国連復帰。この国際社会への復帰は経済の高度成長を

促し、我々の生活水準、生活内容に大きな変革をもたらした。

それと同時に文化の国際化も進んでいった。

昭和32年にはイタリアオペラが来日した。

しかし、当時の日本には本格的なオペラハウスがなく、この来日公演は東京宝塚劇場や

宝塚大劇場にて上演された。

都民からは「東京に本格的なオペラハウスを」との声が立ち上がり恩賜上野公園内に

東京文化会館の建設を計画、前川設計事務所の設計で建設が開始された。

舞台照明担当として参加した当社では西洋のオペラやバレエのキューの多さ、

早い変化に対応すべくU型調光変圧器の操作系の全てを弱電操作で行う

UMS型調光装置を開発し納入した。負荷回路数も480回路と当時としては非常に多く

回路が整備されたギャラリーがあり「効果的な明り作りができる」と評判を呼んだ。

以後会館関係者の尽力もあり今でも東京文化会館は世界有数のオペラハウスといわれている。

このUMS型調光装置は後に建設された神奈川県立音楽堂などにも採用される他、

この頃前後して開発された8吋のフラノコンベックスレンズを使用したC-8型スポットライトは以後も同様のスポットライトの代名詞となるほど流通したスポットライトととなった。

 

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