舞台裏

HISTORY 5 -U型調光器のあれこれ-

2015年10月21日

皆さん、こんにちは!

この連載も第五弾となりました。

これも、記事をお読みくださる皆さんあってこそ。

ありがとうございます!

 第一弾

第二弾

第三弾

第四弾

第五弾→この記事です。

 

前回は関西を席巻していた宝塚少女歌劇が東京へ本格的進出の拠点

「東京宝塚劇場」の設計、施工秘話と当社の多分岐調光変圧器U

採用の経緯などをご紹介いたしました。

今日はそのU型調光器についてお話したいと思います。

 

当時の型録(カタログ)の説明は以下のようになる

U型調光變壓器ハ舞台照明用調光器トシテ最モ完備シタモノデアリマシテ、

抵抗式及ビ「サイラトロンレアクトル」式調光器ニ於ケル熱損失或ハ

力率低下並ビニ負荷容量ノ變化ニ依リテ調光度ニ變化ヲ及ボス等ノ缼点ヲ

除去シタ事ハCR型及ビD型調光器ト同様デ特ニ大規模ノ舞台照明設備ノ

調光装置トシテ適當ノモノデアリマス。」

それまでの方式とは一線を画し、

電力消費の無駄が少ないこと、許容容量内であれば、あらゆる負荷の調光が

可能であるという特長があった。

特に、東京宝塚劇場は他とは異なるレビュー作品の上演を目的として

当時の日本の劇場建築の常識を超えて設計された劇場であり舞台照明設備も

スピーディーな場面展開に対応可能な設備となっていた。

調光操作機は機械的遠隔操作により操作面積が小さく、便利になるほか

130回路余り、9場面のプリセットの操作卓は当時にしては大規模にもかかわらず

それを一人の人間が操作することが可能になった設備であった。

ちなみに、東京宝塚劇場は日本で初めて照明操作室を観客席側に

置いた劇場であり、緞帳の内側の操作室で明りを操作していたそれまでのスタイル

からの脱却は東京宝塚劇場が後の舞台照明界に残した業績のひとつ、

といっても良いだろう。

 

そうして、宝塚少女歌劇は杮落しで

「宝三番叟」「花詩集」で幕を開けロングランを続けた。

 

当社のU型調光変圧器は各方面に認められ、大阪、名古屋、京都の宝塚劇場、

有楽座他、明治座、御園座などの改修でも納入され、以後約30年に亘り

舞台用調光器はこの方式が採用された。

 と、ここまで書けば気になりますね。

U型調光変圧器が一体どんなものであったのかが。

そういうわけですので……

これが、噂の()1号機です。

調光器1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

調光器2

 

 

 

 

 

 

 

劇場が改修となった際ご厚意で当社に寄贈され、

現在もその一部が大田区の技術センター内に展示してあります。

HISTORY 10 【最終回】日本の文化芸術振興と共に

2017年3月3日

皆さま、本日も当ブログをご覧くださいましてありがとうございます。

本日3月3日は当社の創立記念の日となります!

本年もまたこの日を無事に迎えられましたのも皆さまのお力あってのこと。
私共は創立より日本の文化芸術発展の一端を担わせていただいておりますが
なお一層、励んでまいりたいと存じます。

第1話 は コチラ
第2話 は コチラ
第3話 は コチラ
第4話 は コチラ
第5話 は コチラ
第6話 は コチラ
第7話 は コチラ
第8話 は コチラ
第9話 は コチラ

 

さて、皆さまに当社のことを知っていただき、親しみを持っていただければ
と掲載してまいりました社史ですが、今回で最終回となります。
全10回のご愛読ありがとうございました。
今回も最後までごゆっくりお楽しみください。

 

『昭和30年に高校演劇指導者講習会が開かれることになった。
これを発端としてその後全国各地の高等学校では“文化活動としての演劇”
が盛んになっていった。

大会やコンクールが各地方で開催されるようになると講堂や体育館にも
舞台照明を設備するという学校が年々増えてきた。

また、ホテルや旅館も宿泊だけでなく宴会場などの多様な機能を
兼ねはじめ、演出照明設備が必要となってきた。

昭和40年代は万国博覧会の開催に伴うパビリオンの建設や、
公共事業が盛んとなり全国各地で劇場などの文化施設
の建設がなされるようになった。

テレビ放送は開始されて以降目覚ましい進化を続け演出照明の需要はますます
高まっていた。

こうしたさまざまな要素が折り重なり調光装置を始め、舞台照明設備の技術
は更なる進化を遂げていった。
昭和50年代後半に入り文化活動がますます勢いを増してくると
全国あらゆる都市で文化施設の建設をに拍車がかかっていった。

当社は会館の規模の大小を問わず、その施設、目的にあわせ
最新技術を投入した記憶付の照明操作卓から手動の照明操作卓まで納入していった。

その流れの中、東京大田区の機器開発及び電子関係の業務を担っていた
“東京工場”の敷地を京浜急行電鉄に用地提供するのを機に新たに昭和61年(1986年)
実験スタジオや照明器具からソフトウエアの開発に至るまでの設備を
兼ね備えた“技術センター”を新築することとなった。
また第二次世界大戦の東京大空襲でも奇跡的に焼けることなく残っていた
本社社屋は老朽化がすすみ創立70周年を機に平成2年(1990年)新社屋に
建替えとなり現在に至っている。

白熱電球の発明からわずか139年あまり。
現在、照明器具の光源としてはLEDの採用が目立つようになり、
調光もデジタル信号を使用したシステムを採用するようになっている。

ハード(舞台周辺機器)の進化がソフト(上演作品)の多様化を産み
またソフトの多様化がハードの進化を促して日本の文化芸術は発展を
遂げてきた。

当社は今後も文化芸術を愛し感動する心を大切にしながら次世代の
舞台、テレビジョン照明設備の発達を促しながら社会貢献をしてゆきたいと
考えている。』

HISTORY 9

2016年10月1日

皆さま、いつも当ブログにお越しくださいましてありがとうございます。
ゆっくりペースで進めております、当社の成り立ちを皆さまにご紹介
させていただくこのシリーズも、今回で9回目。

今日は新型調光器をテレビスタジオを皮切りに日本の名だたる劇場へ
納入してゆく舞台照明革新期のお話です。

第1話 は コチラ
第2話 は コチラ
第3話 は コチラ
第4話 は コチラ
第5話 は コチラ
第6話 は コチラ
第7話 は コチラ
第8話 は コチラ

をご覧くださいね。

では、スタートです!

日本経済が復興し、国民の生活水準の向上に伴いテレビという大衆的映像文化
が目覚ましい発展を遂げる時代がやってくる。

昭和26年テレビジョン実験放送が実現すると当社でもアメリカやヨーロッパの文献
を頼りにテレビスタジオ用の照明の研究が開始された。
NHKでは昭和29年に本放送を始めるに当たり、国内産の機材でテレビスタジオ
を作ろうという機運が高まり、照明設備については当社で担当することになった。
舞台照明で培った技術を基に、実験放送開始からほどなくして取り組み始めた
スタジオ照明の研究成果を存分に発揮することができた。

以後、NHKに次いで開局するテレビスタジオ照明においても当社は業務を通じ
貢献してゆくこととなった。

劇場界においても丁度その時期、現代科学と技術の粋を集めた劇場建設の計画が
立ち上がり日生劇場の建設が始まった。
日生劇場は外国の一流劇場で当時採用されていたサイリスタ方式(シリコン製の
半導体素子により大電流を制御する整流器を利用した調光方式)の調光装置
を取り入れた。

多数の場面を事前にセット出来るこの方式は照明の変化を瞬時に行えるなどまさに
最先端の技術が導入された設備であった。

技術部門の責任者であった吉井澄雄氏(現 公益社団法人日本照明家協会名誉会長)は
著書『新劇と私の数十年』の中で次のように記している。
「当時の劇場、ホールの貧しい照明設備では、とても自分が考えているような照明は実現
できそうになく、また、それを改善する力もなく、
その方途もすぐにみつかりそうもなかったからである。 (中略)
その頃のテレビ局はアメリカの技術に追いつくために、最新のエレクトロニクスの
情報を取り込むのに大量で、その中には欧米の新しい技術資料もかなりあって、
門前の小僧よろしく自分の糧にしてしまった私は、こうした照明の設備や器具を何とか
劇場に採用できないものかと夢見ていたのである。」

サイリスタ方式の調光装置は後に建設された国立劇場や解体・建設される帝国劇場など、
ほとんどの劇場に採用されることとなる。

明治年間から建設の話が持ち上がりながらも実現に至っていなかった国立劇場建設、
明治44年の開場以来、日本文化の殿堂であった帝国劇場の解体・建設は同時期の
出来事である。当社にとっては喜びの多い仕事であり責任の重大さに身が引き締まる
思いであったと当時の関係者は話している。

昭和42年にはこれからの時代を担う若い世代の人々に、舞台照明の知識の向上
や認知の拡大の助けになるようにと“丸茂ライティングニュース”を発刊。
(バックナンバーはコチラ)舞台照明にまつわる様々な情報や知識のわかり易い
解説は学校演劇に携わる人やアマチュア演劇に携わる人々などにも広く読まれ、
好評を博していた。

このように、実際の建設業務だけでなく舞台照明を一般に浸透させようと
現在に至るまで広く活動を行っている。

 

HISTORY 8

2016年6月2日

皆さん、こんにちは!

いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。

前回までは創業から第二次世界大戦を経て、すべてを失った弊社が、

技術者の記憶、焼け残った劇場の設備をスケッチして準備をし、焼け残った材料や

物資をはるばる山梨県の小屋に運びこみ

再起への新たな一歩を踏み出したところまでをお読みいただきました。

第1話 は コチラ

第2話 は コチラ

第3話 は コチラ

第4話 は コチラ

第5話 は コチラ

第6話 は コチラ

第7話 は コチラ

そして戦後復興の第8話この記事です。

 

終戦より数年を経た昭和24年、

戦時中の空襲により焼失していた歌舞伎座再建の話が立ち上がり

吉田五十八氏の設計の元、事業が開始された。

当社も舞台照明設備を担当することになったがこの第四期歌舞伎座が開場する

昭和26年までの間に朝鮮動乱が勃発し、たちまちのうちに資材は高騰、

材料不足で市場は混乱を極めることとなった。

工事関係の会社でも中には倒産する会社もあり、夜間は電線泥棒などにも

気をつけねばならなかった。

この時の歌舞伎座の設備は負荷回路254回路で、調光回路20A120回路、

30A20回路、40A20回路。

歌舞伎座操作把手盤

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真は第四期歌舞伎座の調光設備の一部です。)

この設備仕様で平成22年第五期歌舞伎座(現歌舞伎座)リニューアル開始までは

ほぼそのままの仕様で使われた。

昭和26年1月1日杮落しの日をなんとか迎えられると当社の再出発も軌道に乗ったと

いえるようになった。

昭和26年には三越劇場の照明設備を施工した。

当時はまだまだ劇場がない時代。

しかもデパートの文化事業の一環として本格的な劇場が出来たのは

三越劇場が初めてでこの劇場建設は世間の評判を呼ぶこととなり、現在に至るまで

新劇を中心に多くの公演が行われている。

昭和27年4月にはサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が

発効され、連合国の日本占領に終止符が打たれた。

この昭和20年代後半から日本全国の劇場復興や新設が進み当社製品が全国各地の

ホールへと納品されてゆくこととなる。

その流れを追うように弊社もその土地に根差した仕事をと日本各地域に営業所を開設、

各地でのきめ細やかな対応を現在も継続している。

さらに、昭和31年、日本は国連復帰。この国際社会への復帰は経済の高度成長を

促し、我々の生活水準、生活内容に大きな変革をもたらした。

それと同時に文化の国際化も進んでいった。

昭和32年にはイタリアオペラが来日した。

しかし、当時の日本には本格的なオペラハウスがなく、この来日公演は東京宝塚劇場や

宝塚大劇場にて上演された。

都民からは「東京に本格的なオペラハウスを」との声が立ち上がり恩賜上野公園内に

東京文化会館の建設を計画、前川設計事務所の設計で建設が開始された。

舞台照明担当として参加した当社では西洋のオペラやバレエのキューの多さ、

早い変化に対応すべくU型調光変圧器の操作系の全てを弱電操作で行う

UMS型調光装置を開発し納入した。負荷回路数も480回路と当時としては非常に多く

回路が整備されたギャラリーがあり「効果的な明り作りができる」と評判を呼んだ。

以後会館関係者の尽力もあり今でも東京文化会館は世界有数のオペラハウスといわれている。

このUMS型調光装置は後に建設された神奈川県立音楽堂などにも採用される他、

この頃前後して開発された8吋のフラノコンベックスレンズを使用したC-8型スポットライトは以後も同様のスポットライトの代名詞となるほど流通したスポットライトととなった。

 

HISTORY7

2016年3月15日

皆さん、こんにちは!

いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。

驚くべきことに、こちらのブログ今年の初更新です。。。

早いもので、社史の連載も開始から1年ほどが経ちました。

本日は終戦直後の弊社を皆さんと一緒にたどってみたいと思います。

1話 は コチラ

2話 は コチラ

3話 は コチラ

4話 は コチラ

5話 は コチラ

6話 は コチラ

この記事は第7話です。

昭和19年~20年にかけて激化した戦況、そしてほどなく迎えることとなった終戦の日。

多くの都市は度重なる空襲により廃墟となったがその中から

人々は再び未来を見据えて立ち上がろうとしていた。

当社のことを話せば、山梨県の(現在の竜王町)に小屋を借入れ、

かろうじて焼失を免れた工作機械を持ち込んでの工場再開となった。

一切の設計資料が焼失し手元に何も残らない中、業務の完全再開に備え

それぞれの技術者が自らの記憶をたどるほか、焼け残った劇場を訪ねては

劇場の照明設備のスケッチをかさねていった。

それは、日本の芸術、文化の復興・復旧を一心に目指す当時の社員の

心意気の表れだったのではなかろうか。

当社にとって舞台照明の仕事のスタートは昭和22年に開始した新橋演舞場の

復興工事である。

戦後、物資欠乏の頃ではあるが本格的な仕事であり、

焼け残ったもの、工夫すれば使用できるもの等を探しては甲府駅までは貨車、

駅から小屋まではリヤカーで運び込み、

工具も十分とは言えない中製作を進めていったのだった。

現場(劇場現地)での工事の段となったが、

まだまだ広がる焼野原の東京では宿泊場所や食料調達にも事欠いていたので

布団を新橋演舞場に持ち込んで泊まり込みで仕事を行ってゆくこととなった。

そんな必死の作業の合間にもしばしば起こる停電や駐留軍や警察官による職務質問など

今からでは想像できない過酷な条件の中、多くの苦労を重ねつつも、

社員一同、一丸となりこの業務にすべてを注ぎ込み

昭和23年3月新橋演舞場は無事に再開場の日を迎えることとなった。

設備内容は、回路数138回路となっており、調光変圧器は把手型30Aのもの132本。

この折納入した操作把手盤は昭和56年の取り壊しまで使用された。

当時の照明担当者の方は撤去に際し「それはもったいない博物館に保存しなければ」

との海外の大学教授の声を聞き「うれしかったね。とにかく、再建当時は最新の設備だった。

国産だけど大事に使ってきた。」と語っていたという。

 

HISTORY  6

2015年11月26日

 皆さん、こんにちは。

営業部の大竹です!

いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。

こちらのHISTORYはただ今連作中となっております!

今までの記事をまず、ご紹介いたしますね!

1話 は コチラ

2話 は コチラ

3話 は コチラ

4話 は コチラ

5話 は コチラ

6話 は この記事です。

 

さて、今回は、日本を今の方向へ大きく大転換させるきっかけとなった

『第二次世界大戦』中の丸茂電機について触れてゆきたいと思います。

折しも本年は戦後70年を数える節目の年であり、当時の劇場界を振り返りながら

弊社の第二次世界大戦についてお話できればと思います。

 

【 第二次世界大戦 】

昭和10(1935)から昭和15(1940)の間は

劇場の新設や改修の業務も多く、順調であり弊社社員も50名を超えての大所帯となりつつあった。

製品的にも、各劇場からもその優秀性を認められていたU型調光器だけでなく、

現在も使用されているBC(ボーダーライト)T-1(スポットライト)などの原型も

製品として多く出荷されるようになっており、あらゆる面で充実していた時期であった。

 

1612月太平洋戦争が始まると国民の政治、経済はもちろん、思想、

私生活に渡って今までの生活から戦争中心の生活への変化を余儀なくされることとなった。

当社は当時NHKが世田谷区の砧に作ったテレビジョン試験用の照明設備などを手掛けていたが

それだけではなく、各種訓練用のパノラマに使用する照明器具の製作や抵抗器の製作も請け負うこととなった。

戦時中とはいえ、まだ多摩川あたりはのどかな田園風景が多くみられたことから

砧へ打合せに向かう道などはピクニックのような気持ちで歩ける日もあったという。

しかし、戦況が次第に激しくなってくると都市部の空襲も日を追って多くなっていった。

昭和1911月以降東京は106回ほどの空襲を受けたといわれている。

それに伴い強制疎開などが行われ国民唯一の娯楽期間であった劇場や映画館も閉鎖、軍需工場となった。

そのため、保守業務でわずかに続いていた舞台照明の仕事さえもとうとう全くなくなってしまった。

そればかりか、戦争の激化に伴い所員は次々と召集され、

大陸や南方戦線へと旅立つこととなり、わずか数名の所員を残すばかりとなった。

そしてついに、昭和20年度重なる東京への空襲の結果、会社施設はすべて灰燼と化し、

当社の機能は完全に停止してしまったのだった。

HISTORY4 -東京宝塚劇場の建設と新型調光器-

2015年7月31日

皆さん、こんにちは!
営業部の大竹です!
早速ですが、連載企画続編をお楽しみくださいませ(^^)

尚、今までの歴史はコチラをごらんくださいね

・第一弾

・第二弾

・第三弾

第四弾→この記事です。

当社の事業・業績に大きな影響をもたらす出来事に宝塚唱歌隊(現宝塚歌劇団)の結成がある。

阪急電鉄の前身である箕面有馬電鉄が電鉄の振興策として社長小林一三氏によって作られた少女ばかりの音楽隊『宝塚唱歌隊』は、

人気を博し『宝塚少女歌劇団』となった。

少女歌劇団は大正3(1914)にプールを改造して作られたパラダイス劇場での第1回記念公演を皮切りに定期的な公演を行っていた。

その華やかさ、清廉さは広く大衆の心をつかみ、観客は増加。

それに伴い、少女歌劇団も組分で公演を行うなど発展を見せていた。

昭和に入ると日本初のレビューショー『モン・パリ』を上演。幕無し16場のスピーディーな展開は斬新そのものであり

観客の評判を呼び、宝塚レビューの時代の幕開けとなった。

数々の名作は女学生からマダムまで幅広い層の人々を夢の世界へと誘っていった。

 

その勢いに乗るように、東京宝塚劇場の建設が計画されることとなった。

この劇場が宝塚少女歌劇団の東京進出の拠点となる為、

阪急電鉄の劇場技術者である井上正雄氏を中心としたスタッフは約1年間にわたり、

アメリカ、イギリス、フランス、ドイツと渡り歩き欧米の優れた劇場を模範として基本設計を行った。

 

従来の歌舞伎のような絵巻物式舞台面を観客に見せる額縁舞台の開口とは対照的な大レビュー劇場の建設である。

当然ながら舞台照明設備も画期的方式を採用することとなり当時、

弊社で試作をしていた“多分岐式調光変圧器U型”が井上氏の目に留まり採用されることとなった。
東京宝塚劇場

 

 

 

 

 

その納入までの道のりを創業者丸茂富治郎は『日本照明家協議会会報』(昭和3912月号)にてこう語っている。

「変圧式調光器を舞台に使えるように工夫して工場内で試作を続け、試作がほとんど完成した時に東京宝塚劇場の建設が始まって井上さんの大英断でその方式の採用が決まってご下命を得たのですが、私としては商売的には全く考えず只自分の考案が実った喜びと必ず立派なものを作り上げなければならないという責任とで緊張して試作品を詳しく調べ設計を再三調査して、もうこれなら大丈夫と自分で自分に言い聞かせて安心して製作にとりかかり、納期すれすれに完成することが出来た。東京宝塚劇場の此の多分岐調光変圧器装置は、ドイツがこれと異なる方式の多分岐式調光変圧器を製作したのより、私の方が二、三年早かった事は文献並びに当時実際に欧米を回ってこられた井上さんの実証によって知らせて頂いた。」

HISTORY 3

2015年5月26日

皆さん、こんにちは。

営業部の大竹です。

弊社ブログをいつもお読みくださいましてありがとうございます。

当ブログの連載企画舞台照明と弊社の歴史も第3回目となりました!

今回は激動の時代、その波に乗りながらこの時代に次々に建設された劇場の照明設備に

まつわるお話です。

当時の弊社勤務の人間の心意気を少しでも感じていただけたら嬉しいです。

第一弾はコチラ

第二弾はコチラ

 

【 昭和の勢い 】

関東大震災が及ぼした影響は物質的な影響のみならず、都市生活そのものにまで及ぶこととなった。

とりわけ都市部の生活条件は大きく変化を遂げ、

盛り場は下町から山の手に移り、銀座・新宿・渋谷などの発展と共に各地に劇場が次々と建設された。

その数に比例するかのように劇場設備も進化を遂げていったのが昭和初期の出来事である。

劇場における舞台照明設備もその流れから漏れることなく進化していった。

 

丸茂富治郎の熱意と努力の賜物である。

 

当時、演劇における舞台照明は

「凡ソ演劇ノ近代的演出ニ於テ照明ガ重要ナル役割ヲ受持ツ事ハ明カデアリマシテ、舞台上ノ調和セル配光ト柔カナル彩光ノ變化(変化)ガ進歩セル調光器設備ト其巧妙ナル操作トノ所産デアルト言フ事モ亦認メ得ル處デアリマス」

と、当時の弊社の“型録”(注:カタログです 笑)に記載される程重要視されており、

 

「一人ノ操縦者ニヨリ容易ニ且ツ確実ニ舞台照明ノ総テヲ操作シ得ル様構造セル装置」

であるNW型金属抵抗器は、全く新しい発想の装置として昭和3年(1928年)開場の明治座に納入された。

NW型金属抵抗器

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治座は、その名の通り明治6年に喜昇座として開場し、久松座、千歳座と改築の度に名前を変え、

昭和3年に明治座として再開場した。

杮落しは「番町皿屋敷」他であった。

 

その様子を観劇していた都新聞の記者は「舞台飾りや照明設備の進んだことは驚くばかりである」と評した

とのことだ。

この全く新しいNW型金属抵抗器は明治座を皮切りに歌舞伎座、東京劇場、新宿第一劇場、浅草常磐座、

大阪歌舞伎座、京都南座、名古屋御園座に配置された。

 

これらの劇場では舞台照明設備そのものもかなり改善されており、制限のあった電力の供給から電気の設備容量も増え、

現在でも一般的な配線方式として採用されている“34線”式が東京劇場では取り入れられたほか、

新設の劇場にはフロントライティングの設備ができ、ボーダーライト、フットライトはコンパートメント(仕切式)となった。

また弊社のスポットライトは電球の位置や方向の調整をスポットライトの外部から行うような仕様が通常となった。

 

昭和初期のパッチは抵抗器から配電盤で小分けしてパッチする方式をとっており、

配電盤の裏には捨て球用のソケットが設備されていた。

抵抗用のニクロム線は焼けやすかったのでワイヤーやブラシなどと共に常に常備してあり、

いつでも取替られる体制をとっていた。

照明操作そのものも45名で操作していたと聞いているが中々の忙しさであったそうだ。

しかしながら、そのまた一昔前の時代を思えばかかる人力は少なくなったのかもしれない。

続く

 

 

B-01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(昭和初期のカタログです。

今でもなじみ深い形のスポットライトも掲載されていますね。)

 

T-1型

HISTORY 2

2015年4月9日

みなさん、こんにちは。
営業部の大竹です!

連載企画として始めた弊社と劇場照明の時代を眺めるシリーズ第2回目です!
第1弾はコチラをご覧ください。

今回は近代日本における大きな自然災害を挟んでのお話です。

【 関東大震災と歌舞伎座復興 】

第一次世界大戦の影が響色濃く残る大正八年、丸茂富治郎の強い志と周囲の助力により、「丸茂電機製作所」は創業となった。

まだまだ戦後不況の冷たい波が高く、苦しい日々の中、高圧配電盤の製作など富治郎の学友からの紹介による仕事に社員一同不休で携わることとなったが、これは会社自体に力を蓄える経験となっていった。
当時の時代の流れとして国策での軍需協力も要請されていたが、その際に手がけたグリッド抵抗器、探照灯など初めての製作となるものも数々あった。
そのために外国より取り寄せた資料を読込みながら試行錯誤を繰り返すなど、苦心の末にたどり着いた製品への道のりは、後になり舞台照明用抵抗器や照明器具の製作ノウハウの礎となったのである。

創業より4年ほど経った頃、当社を舞台照明設備に携わる専門業者へと大きく舵を切らせる大きな出来事が起こる。
当時の日本では未曾有の大災害であった大正12年の「関東大震災」だ。
この大震災は建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟といわれ、主に東京の火災被害が大きく記録として残っているが、
幸いにも当社は甚大な被害を被らずに済んでいた。
今も中央区銀座で日本伝統芸能の発信の拠点ともいえる歌舞伎座はこの自然災害に遡ること2年前漏電によって焼失、
当時は再建工事の途上、建物本体の躯体が完成したところであったが、この災害で建設は振り出しに戻ることとなってしまった。
当初歌舞伎座の舞台照明に関しては、アメリカのクリーゲル社の設備を使用する予定であったようだが、諸々折り合いがつかず、歌舞伎座の設計監督であった原氏より声がかかり
舞台照明用配電盤、グリッド抵抗の調光器を製作することとなった。全回路を3色に分岐して1色系統は同時に調光するものであった。

舞台照明設備製作という未知の世界へ足を踏み出すことができたのは、技術的には先にも述べた軍需協力の経験によることもあるが、
何より、富治郎が幼少期より歌舞伎に親しんだであろう体験、学生時代に帝国劇場を見学した際に設備されていた
ドイツのジーメンス社製品の素晴らしさに感嘆したことも大きな原動力のひとつとなっていたのだろう。
その感嘆から十数年後、自らの手で劇場の舞台照明設備を手掛けることとなるのである。

歌舞伎座は数多の人々の尽力があり、大正14年無事に杮落しを迎えることとなる。
記念すべき演目は松居松葉演出による「家康入国」であった。
その舞台の終わりに舞台の間口ほどもある背景に配した雄大な富士山が夕焼けに映え、次第にうすらぎ夜の闇に移ってゆくという情景は圧巻であったと記録に残されている。
当時歌舞伎座の照明部員は6、7名。背景の裏側から旧式のスポットライトを10数台使用しての演出はステージの設営を済ませると調光室へ駆け上り幕を開け、下手、上手のフロントルームへ。
奈落、花道の下を通り抜け客席さえも通り抜けてゆくため正に身体で仕事をしていたといえる。
ともあれ、これが大劇場における日本製の舞台照明設備の幕開けである。

この時期に当社で納入した設備として他に新橋演舞場などがある。
新橋演舞場は大正14年4月にジーメンス社製の摺動型の調光装置を設備し、「東おどり」で開場した。
翌15年に当社で同じ摺動型の調光装置を追加施工した。
当時、新橋演舞場の重役でもあったお茶屋の女将達がドイツ製の調光装置を買ったと聞きつけ
「ドイツから新しい照明の機械を買ったのだから舞台はもっと明るくなるのだろう。」といい
「この機械は暗くすることはできるが、明るくすることはできないものだ。」と答えたところ
「そんな無駄な機械をなぜ高いお金を払って買ったのだ。」と照明係が言われたという逸話が残っているが、
これは本格的な演出照明というものが一般市民の考えにおいてはまだまだ黎明期であったといえる当時の日本の劇場照明事情の一端を表す会話と思われる。

 

続く

技術の足跡

2021年11月9日

皆さん、こんにちは。営業部の大竹です。

突然ですが、日本は世界有数の産業技術を持つ国だそうです。
日々の生活の中ではなかなか気が付くことができませんね。

昭和、平成、令和と時代が移ると共に、新しい物が次々と世に出され、
それまでに発明、開発された物や使われてきた物はひっそりと姿を消しつつあります。

そんな産業技技術の発展や歴史の資料を後世に残してゆくために国立科学博物館が主体となって
平成14年6月に「産業技術資料情報センター」という組織を立ち上げました。
同センターではその研究活動の一環として「産業技術資料の所在調査」を行い、その貴重な資料を
データベース化しています。

このブログの「HISTORY」でも書かせていただいていますが当社は大正8年の創業以来、日本の劇場
そして演出照明の発展と歴史に貢献し、共に歩んできたといっても過言ではありません。

実は丸茂電機が創業から昭和初期にかけて製作し、劇場向け調光器として会社の代名詞ともなった
オートトランスやC-8、T1、DFなどの器具当時のカタログ(型録)の合計25点が
産業技術資料データベースに登録されました!(T1やDFは技術の進歩と共に少しずつモデルチェンジは行っていますが現在も販売され、お買い上げいただくことの多いロングセラーの製品です)

先日、改めてそのページを眺めてみました。
その時代に生きていたものが時を経て使用を終えた今もその存在に意味があることを感じます。

物と技術に歴史あり、そしてその後ろには先人の存在が必ずあります。
それを忘れることなく、私達もまた今、この時を紡ぎ次代へつないでゆきたいなぁと感じました。

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