舞台裏

HISTORY 2

2015年4月9日

みなさん、こんにちは。
営業部の大竹です!

連載企画として始めた弊社と劇場照明の時代を眺めるシリーズ第2回目です!
第1弾はコチラをご覧ください。

今回は近代日本における大きな自然災害を挟んでのお話です。

【 関東大震災と歌舞伎座復興 】

第一次世界大戦の影が響色濃く残る大正八年、丸茂富治郎の強い志と周囲の助力により、「丸茂電機製作所」は創業となった。

まだまだ戦後不況の冷たい波が高く、苦しい日々の中、高圧配電盤の製作など富治郎の学友からの紹介による仕事に社員一同不休で携わることとなったが、これは会社自体に力を蓄える経験となっていった。
当時の時代の流れとして国策での軍需協力も要請されていたが、その際に手がけたグリッド抵抗器、探照灯など初めての製作となるものも数々あった。
そのために外国より取り寄せた資料を読込みながら試行錯誤を繰り返すなど、苦心の末にたどり着いた製品への道のりは、後になり舞台照明用抵抗器や照明器具の製作ノウハウの礎となったのである。

創業より4年ほど経った頃、当社を舞台照明設備に携わる専門業者へと大きく舵を切らせる大きな出来事が起こる。
当時の日本では未曾有の大災害であった大正12年の「関東大震災」だ。
この大震災は建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟といわれ、主に東京の火災被害が大きく記録として残っているが、
幸いにも当社は甚大な被害を被らずに済んでいた。
今も中央区銀座で日本伝統芸能の発信の拠点ともいえる歌舞伎座はこの自然災害に遡ること2年前漏電によって焼失、
当時は再建工事の途上、建物本体の躯体が完成したところであったが、この災害で建設は振り出しに戻ることとなってしまった。
当初歌舞伎座の舞台照明に関しては、アメリカのクリーゲル社の設備を使用する予定であったようだが、諸々折り合いがつかず、歌舞伎座の設計監督であった原氏より声がかかり
舞台照明用配電盤、グリッド抵抗の調光器を製作することとなった。全回路を3色に分岐して1色系統は同時に調光するものであった。

舞台照明設備製作という未知の世界へ足を踏み出すことができたのは、技術的には先にも述べた軍需協力の経験によることもあるが、
何より、富治郎が幼少期より歌舞伎に親しんだであろう体験、学生時代に帝国劇場を見学した際に設備されていた
ドイツのジーメンス社製品の素晴らしさに感嘆したことも大きな原動力のひとつとなっていたのだろう。
その感嘆から十数年後、自らの手で劇場の舞台照明設備を手掛けることとなるのである。

歌舞伎座は数多の人々の尽力があり、大正14年無事に杮落しを迎えることとなる。
記念すべき演目は松居松葉演出による「家康入国」であった。
その舞台の終わりに舞台の間口ほどもある背景に配した雄大な富士山が夕焼けに映え、次第にうすらぎ夜の闇に移ってゆくという情景は圧巻であったと記録に残されている。
当時歌舞伎座の照明部員は6、7名。背景の裏側から旧式のスポットライトを10数台使用しての演出はステージの設営を済ませると調光室へ駆け上り幕を開け、下手、上手のフロントルームへ。
奈落、花道の下を通り抜け客席さえも通り抜けてゆくため正に身体で仕事をしていたといえる。
ともあれ、これが大劇場における日本製の舞台照明設備の幕開けである。

この時期に当社で納入した設備として他に新橋演舞場などがある。
新橋演舞場は大正14年4月にジーメンス社製の摺動型の調光装置を設備し、「東おどり」で開場した。
翌15年に当社で同じ摺動型の調光装置を追加施工した。
当時、新橋演舞場の重役でもあったお茶屋の女将達がドイツ製の調光装置を買ったと聞きつけ
「ドイツから新しい照明の機械を買ったのだから舞台はもっと明るくなるのだろう。」といい
「この機械は暗くすることはできるが、明るくすることはできないものだ。」と答えたところ
「そんな無駄な機械をなぜ高いお金を払って買ったのだ。」と照明係が言われたという逸話が残っているが、
これは本格的な演出照明というものが一般市民の考えにおいてはまだまだ黎明期であったといえる当時の日本の劇場照明事情の一端を表す会話と思われる。

 

続く

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