舞台裏

HISTORY 10 【最終回】日本の文化芸術振興と共に

2017年3月3日

皆さま、本日も当ブログをご覧くださいましてありがとうございます。

本日3月3日は当社の創立記念の日となります!

本年もまたこの日を無事に迎えられましたのも皆さまのお力あってのこと。
私共は創立より日本の文化芸術発展の一端を担わせていただいておりますが
なお一層、励んでまいりたいと存じます。

第1話 は コチラ
第2話 は コチラ
第3話 は コチラ
第4話 は コチラ
第5話 は コチラ
第6話 は コチラ
第7話 は コチラ
第8話 は コチラ
第9話 は コチラ

 

さて、皆さまに当社のことを知っていただき、親しみを持っていただければ
と掲載してまいりました社史ですが、今回で最終回となります。
全10回のご愛読ありがとうございました。
今回も最後までごゆっくりお楽しみください。

 

『昭和30年に高校演劇指導者講習会が開かれることになった。
これを発端としてその後全国各地の高等学校では“文化活動としての演劇”
が盛んになっていった。

大会やコンクールが各地方で開催されるようになると講堂や体育館にも
舞台照明を設備するという学校が年々増えてきた。

また、ホテルや旅館も宿泊だけでなく宴会場などの多様な機能を
兼ねはじめ、演出照明設備が必要となってきた。

昭和40年代は万国博覧会の開催に伴うパビリオンの建設や、
公共事業が盛んとなり全国各地で劇場などの文化施設
の建設がなされるようになった。

テレビ放送は開始されて以降目覚ましい進化を続け演出照明の需要はますます
高まっていた。

こうしたさまざまな要素が折り重なり調光装置を始め、舞台照明設備の技術
は更なる進化を遂げていった。
昭和50年代後半に入り文化活動がますます勢いを増してくると
全国あらゆる都市で文化施設の建設をに拍車がかかっていった。

当社は会館の規模の大小を問わず、その施設、目的にあわせ
最新技術を投入した記憶付の照明操作卓から手動の照明操作卓まで納入していった。

その流れの中、東京大田区の機器開発及び電子関係の業務を担っていた
“東京工場”の敷地を京浜急行電鉄に用地提供するのを機に新たに昭和61年(1986年)
実験スタジオや照明器具からソフトウエアの開発に至るまでの設備を
兼ね備えた“技術センター”を新築することとなった。
また第二次世界大戦の東京大空襲でも奇跡的に焼けることなく残っていた
本社社屋は老朽化がすすみ創立70周年を機に平成2年(1990年)新社屋に
建替えとなり現在に至っている。

白熱電球の発明からわずか139年あまり。
現在、照明器具の光源としてはLEDの採用が目立つようになり、
調光もデジタル信号を使用したシステムを採用するようになっている。

ハード(舞台周辺機器)の進化がソフト(上演作品)の多様化を産み
またソフトの多様化がハードの進化を促して日本の文化芸術は発展を
遂げてきた。

当社は今後も文化芸術を愛し感動する心を大切にしながら次世代の
舞台、テレビジョン照明設備の発達を促しながら社会貢献をしてゆきたいと
考えている。』

HISTORY 9

2016年10月1日

皆さま、いつも当ブログにお越しくださいましてありがとうございます。
ゆっくりペースで進めております、当社の成り立ちを皆さまにご紹介
させていただくこのシリーズも、今回で9回目。

今日は新型調光器をテレビスタジオを皮切りに日本の名だたる劇場へ
納入してゆく舞台照明革新期のお話です。

第1話 は コチラ
第2話 は コチラ
第3話 は コチラ
第4話 は コチラ
第5話 は コチラ
第6話 は コチラ
第7話 は コチラ
第8話 は コチラ

をご覧くださいね。

では、スタートです!

日本経済が復興し、国民の生活水準の向上に伴いテレビという大衆的映像文化
が目覚ましい発展を遂げる時代がやってくる。

昭和26年テレビジョン実験放送が実現すると当社でもアメリカやヨーロッパの文献
を頼りにテレビスタジオ用の照明の研究が開始された。
NHKでは昭和29年に本放送を始めるに当たり、国内産の機材でテレビスタジオ
を作ろうという機運が高まり、照明設備については当社で担当することになった。
舞台照明で培った技術を基に、実験放送開始からほどなくして取り組み始めた
スタジオ照明の研究成果を存分に発揮することができた。

以後、NHKに次いで開局するテレビスタジオ照明においても当社は業務を通じ
貢献してゆくこととなった。

劇場界においても丁度その時期、現代科学と技術の粋を集めた劇場建設の計画が
立ち上がり日生劇場の建設が始まった。
日生劇場は外国の一流劇場で当時採用されていたサイリスタ方式(シリコン製の
半導体素子により大電流を制御する整流器を利用した調光方式)の調光装置
を取り入れた。

多数の場面を事前にセット出来るこの方式は照明の変化を瞬時に行えるなどまさに
最先端の技術が導入された設備であった。

技術部門の責任者であった吉井澄雄氏(現 公益社団法人日本照明家協会名誉会長)は
著書『新劇と私の数十年』の中で次のように記している。
「当時の劇場、ホールの貧しい照明設備では、とても自分が考えているような照明は実現
できそうになく、また、それを改善する力もなく、
その方途もすぐにみつかりそうもなかったからである。 (中略)
その頃のテレビ局はアメリカの技術に追いつくために、最新のエレクトロニクスの
情報を取り込むのに大量で、その中には欧米の新しい技術資料もかなりあって、
門前の小僧よろしく自分の糧にしてしまった私は、こうした照明の設備や器具を何とか
劇場に採用できないものかと夢見ていたのである。」

サイリスタ方式の調光装置は後に建設された国立劇場や解体・建設される帝国劇場など、
ほとんどの劇場に採用されることとなる。

明治年間から建設の話が持ち上がりながらも実現に至っていなかった国立劇場建設、
明治44年の開場以来、日本文化の殿堂であった帝国劇場の解体・建設は同時期の
出来事である。当社にとっては喜びの多い仕事であり責任の重大さに身が引き締まる
思いであったと当時の関係者は話している。

昭和42年にはこれからの時代を担う若い世代の人々に、舞台照明の知識の向上
や認知の拡大の助けになるようにと“丸茂ライティングニュース”を発刊。
(バックナンバーはコチラ)舞台照明にまつわる様々な情報や知識のわかり易い
解説は学校演劇に携わる人やアマチュア演劇に携わる人々などにも広く読まれ、
好評を博していた。

このように、実際の建設業務だけでなく舞台照明を一般に浸透させようと
現在に至るまで広く活動を行っている。

 

高校演劇 2

2016年9月15日

みなさま、こんにちは!
本日も当ブログをお読みくださいましてありがとうございます!

本日は年に一度の特別企画!?
演劇部出身の当社社員による高校演劇を振り返るシリーズです。

第1回目は コチラをご覧ください。

ではでは、今年の記事をご堪能ください!

みなさん、こんにちは!
技術課の松立です。

「高校演劇」がテーマなので、ちょっと高校時代を思い出してみました。

高校生の自分は目立ちたくて役者志望で演劇部に入部した事を覚えています。
でも、残念ながらセリフが全く覚えられず本番に2ページ近くセリフが抜ける大失敗をして、
役者には向いていないと痛感しました。
その次の公演で裏方に携わり、舞台照明が楽しいものだと感じたのを覚えています。
これが、僕と舞台照明の運命の出会いで高校では部活、
大学ではアマチュア劇団を作って舞台照明に関わりました。
実は、社会人の今もときどきですが、お芝居をしたりしてます。
さらに、お仕事でも丸茂電機に入社して、このように今も舞台照明に関わっています。

さて、話が脱線してしまいました。高校演劇の話に戻します。

高校演劇の照明では、本当に色々なことがありました。
一番印象深いのは、高校2年生の春大会でホールのスタッフさんに猛烈に怒られたことです。
その理由は、
強電パッチ盤のパッチを勝手に変えた
ことでした。
今、現役の学生の皆さんは強電パッチ盤を見たことあるのでしょうか。
強電パッチ盤とは、好きな調光器から好きなコンセントへ調光電源を供給するため組合せ組替え用の盤です。
パッチコードと呼ばれるコードのつなぎ方で、組合せを自由に変えられるのが特徴です。
でも、大電流が流れているので素人が触ってはいけない装置なのです。
当時の僕は、調光器に容量があることも、どれだけの大電流が流れているかも
知らないので、勝手に組合せを変えをしてしまいました。
今思うと、電気は流れたままだったし、素手だったし、電極に触ってたしと危険極まりない状態でした。
幸いなことに、自分に怪我はなく、器具や装置も無事だったので、
本当に運がよかったと思います。
そしてスタッフさんに怒られて本当によかったと、しみじみ思い出します。
更に、そのスタッフさんは、その後すぐに仕込みを手伝ってくださり、
色々教えてくれてすごく助かったことを覚えています。

実は入社して数年後に、この地区大会をしていた思い出のホールの工事を担当しました。
自分が怒られた強電パッチ盤を撤去して、CUEシート片手に悪戦苦闘した操作卓も撤去して
新品の調光操作卓を納入しました。
今、地区大会は違うホールで行っているらしいので高校生に触ってもらえなくて
少し寂しい気持ちがありますが、思い出のホールを工事できてよかったです。

なんだか懐かしい気持ちが満ちてきたので、記事をこれにて結ばせて頂きたいと思います。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
そして、高校演劇を頑張っている皆さん、楽しい演劇ライフを満喫してくださいね!

丸茂電機㈱ 技術部技術課 松立

HISTORY 8

2016年6月2日

皆さん、こんにちは!

いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。

前回までは創業から第二次世界大戦を経て、すべてを失った弊社が、

技術者の記憶、焼け残った劇場の設備をスケッチして準備をし、焼け残った材料や

物資をはるばる山梨県の小屋に運びこみ

再起への新たな一歩を踏み出したところまでをお読みいただきました。

第1話 は コチラ

第2話 は コチラ

第3話 は コチラ

第4話 は コチラ

第5話 は コチラ

第6話 は コチラ

第7話 は コチラ

そして戦後復興の第8話この記事です。

 

終戦より数年を経た昭和24年、

戦時中の空襲により焼失していた歌舞伎座再建の話が立ち上がり

吉田五十八氏の設計の元、事業が開始された。

当社も舞台照明設備を担当することになったがこの第四期歌舞伎座が開場する

昭和26年までの間に朝鮮動乱が勃発し、たちまちのうちに資材は高騰、

材料不足で市場は混乱を極めることとなった。

工事関係の会社でも中には倒産する会社もあり、夜間は電線泥棒などにも

気をつけねばならなかった。

この時の歌舞伎座の設備は負荷回路254回路で、調光回路20A120回路、

30A20回路、40A20回路。

歌舞伎座操作把手盤

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真は第四期歌舞伎座の調光設備の一部です。)

この設備仕様で平成22年第五期歌舞伎座(現歌舞伎座)リニューアル開始までは

ほぼそのままの仕様で使われた。

昭和26年1月1日杮落しの日をなんとか迎えられると当社の再出発も軌道に乗ったと

いえるようになった。

昭和26年には三越劇場の照明設備を施工した。

当時はまだまだ劇場がない時代。

しかもデパートの文化事業の一環として本格的な劇場が出来たのは

三越劇場が初めてでこの劇場建設は世間の評判を呼ぶこととなり、現在に至るまで

新劇を中心に多くの公演が行われている。

昭和27年4月にはサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が

発効され、連合国の日本占領に終止符が打たれた。

この昭和20年代後半から日本全国の劇場復興や新設が進み当社製品が全国各地の

ホールへと納品されてゆくこととなる。

その流れを追うように弊社もその土地に根差した仕事をと日本各地域に営業所を開設、

各地でのきめ細やかな対応を現在も継続している。

さらに、昭和31年、日本は国連復帰。この国際社会への復帰は経済の高度成長を

促し、我々の生活水準、生活内容に大きな変革をもたらした。

それと同時に文化の国際化も進んでいった。

昭和32年にはイタリアオペラが来日した。

しかし、当時の日本には本格的なオペラハウスがなく、この来日公演は東京宝塚劇場や

宝塚大劇場にて上演された。

都民からは「東京に本格的なオペラハウスを」との声が立ち上がり恩賜上野公園内に

東京文化会館の建設を計画、前川設計事務所の設計で建設が開始された。

舞台照明担当として参加した当社では西洋のオペラやバレエのキューの多さ、

早い変化に対応すべくU型調光変圧器の操作系の全てを弱電操作で行う

UMS型調光装置を開発し納入した。負荷回路数も480回路と当時としては非常に多く

回路が整備されたギャラリーがあり「効果的な明り作りができる」と評判を呼んだ。

以後会館関係者の尽力もあり今でも東京文化会館は世界有数のオペラハウスといわれている。

このUMS型調光装置は後に建設された神奈川県立音楽堂などにも採用される他、

この頃前後して開発された8吋のフラノコンベックスレンズを使用したC-8型スポットライトは以後も同様のスポットライトの代名詞となるほど流通したスポットライトととなった。

 

HISTORY7

2016年3月15日

皆さん、こんにちは!

いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。

驚くべきことに、こちらのブログ今年の初更新です。。。

早いもので、社史の連載も開始から1年ほどが経ちました。

本日は終戦直後の弊社を皆さんと一緒にたどってみたいと思います。

1話 は コチラ

2話 は コチラ

3話 は コチラ

4話 は コチラ

5話 は コチラ

6話 は コチラ

この記事は第7話です。

昭和19年~20年にかけて激化した戦況、そしてほどなく迎えることとなった終戦の日。

多くの都市は度重なる空襲により廃墟となったがその中から

人々は再び未来を見据えて立ち上がろうとしていた。

当社のことを話せば、山梨県の(現在の竜王町)に小屋を借入れ、

かろうじて焼失を免れた工作機械を持ち込んでの工場再開となった。

一切の設計資料が焼失し手元に何も残らない中、業務の完全再開に備え

それぞれの技術者が自らの記憶をたどるほか、焼け残った劇場を訪ねては

劇場の照明設備のスケッチをかさねていった。

それは、日本の芸術、文化の復興・復旧を一心に目指す当時の社員の

心意気の表れだったのではなかろうか。

当社にとって舞台照明の仕事のスタートは昭和22年に開始した新橋演舞場の

復興工事である。

戦後、物資欠乏の頃ではあるが本格的な仕事であり、

焼け残ったもの、工夫すれば使用できるもの等を探しては甲府駅までは貨車、

駅から小屋まではリヤカーで運び込み、

工具も十分とは言えない中製作を進めていったのだった。

現場(劇場現地)での工事の段となったが、

まだまだ広がる焼野原の東京では宿泊場所や食料調達にも事欠いていたので

布団を新橋演舞場に持ち込んで泊まり込みで仕事を行ってゆくこととなった。

そんな必死の作業の合間にもしばしば起こる停電や駐留軍や警察官による職務質問など

今からでは想像できない過酷な条件の中、多くの苦労を重ねつつも、

社員一同、一丸となりこの業務にすべてを注ぎ込み

昭和23年3月新橋演舞場は無事に再開場の日を迎えることとなった。

設備内容は、回路数138回路となっており、調光変圧器は把手型30Aのもの132本。

この折納入した操作把手盤は昭和56年の取り壊しまで使用された。

当時の照明担当者の方は撤去に際し「それはもったいない博物館に保存しなければ」

との海外の大学教授の声を聞き「うれしかったね。とにかく、再建当時は最新の設備だった。

国産だけど大事に使ってきた。」と語っていたという。

 

HISTORY  6

2015年11月26日

 皆さん、こんにちは。

営業部の大竹です!

いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。

こちらのHISTORYはただ今連作中となっております!

今までの記事をまず、ご紹介いたしますね!

1話 は コチラ

2話 は コチラ

3話 は コチラ

4話 は コチラ

5話 は コチラ

6話 は この記事です。

 

さて、今回は、日本を今の方向へ大きく大転換させるきっかけとなった

『第二次世界大戦』中の丸茂電機について触れてゆきたいと思います。

折しも本年は戦後70年を数える節目の年であり、当時の劇場界を振り返りながら

弊社の第二次世界大戦についてお話できればと思います。

 

【 第二次世界大戦 】

昭和10(1935)から昭和15(1940)の間は

劇場の新設や改修の業務も多く、順調であり弊社社員も50名を超えての大所帯となりつつあった。

製品的にも、各劇場からもその優秀性を認められていたU型調光器だけでなく、

現在も使用されているBC(ボーダーライト)T-1(スポットライト)などの原型も

製品として多く出荷されるようになっており、あらゆる面で充実していた時期であった。

 

1612月太平洋戦争が始まると国民の政治、経済はもちろん、思想、

私生活に渡って今までの生活から戦争中心の生活への変化を余儀なくされることとなった。

当社は当時NHKが世田谷区の砧に作ったテレビジョン試験用の照明設備などを手掛けていたが

それだけではなく、各種訓練用のパノラマに使用する照明器具の製作や抵抗器の製作も請け負うこととなった。

戦時中とはいえ、まだ多摩川あたりはのどかな田園風景が多くみられたことから

砧へ打合せに向かう道などはピクニックのような気持ちで歩ける日もあったという。

しかし、戦況が次第に激しくなってくると都市部の空襲も日を追って多くなっていった。

昭和1911月以降東京は106回ほどの空襲を受けたといわれている。

それに伴い強制疎開などが行われ国民唯一の娯楽期間であった劇場や映画館も閉鎖、軍需工場となった。

そのため、保守業務でわずかに続いていた舞台照明の仕事さえもとうとう全くなくなってしまった。

そればかりか、戦争の激化に伴い所員は次々と召集され、

大陸や南方戦線へと旅立つこととなり、わずか数名の所員を残すばかりとなった。

そしてついに、昭和20年度重なる東京への空襲の結果、会社施設はすべて灰燼と化し、

当社の機能は完全に停止してしまったのだった。

高校演劇

2015年10月23日

 
みなさん、こんにちは!
いつも、弊社ブログをお読みいただきありがとうございます!
 
こちらを、いまお読みくださっている方の中には
学生時代の部活動で演劇に携わっていた方も、現在まさに高校演劇部にてバリバリ活動されている方もいらっしゃるんじゃないかと思います。
 

弊社丸茂電機にも、高校時代、大学時代は演劇などの舞台活動に取り組んでいたという
社員が少なからず在職しています。
今日は、そんな社員が自らの学生時代を振り返って記事を書いくれましたので
 
そちらをしばしお楽しみくださいね (*^_^*)。
 
 

 

『 高校演劇 』

 
この時期、各地で学園祭が行われていることと思います。
そして高校演劇は秋季大会の時期でしょうか。
演劇部の皆様は公演に向けて稽古に励んでいる日々だと思います。
 
 

 
個人的な話になりますが、私も遠い昔、演劇部員でした。
少しでも上位大会(県大会、ブロック大会)に出場するため、日々部活動に明け暮れていました。
 
高校にはホールがあり、サスペンションライト、ボーダーライト、ホリゾントライト、調光操作卓が設備され、
高校の演劇部には贅沢な設備でした。
 
 

入部時に裏方を希望したところ、照明係になりました。
クロスフェーダで照明を変えていく操作がとても好きで、毎公演照明を担当しました。
 
 
照明設備や舞台設備の扱い方は先輩から教えてもらうので、素人が素人に教えるわけですから、
普通にサスペンションライトのコンセントにスポットライトのプラグを差して、調光操作卓でフェーダを上げれば点灯する、
程度の認識しかなかったので、大学進学で演劇を専攻し入学してからサスペンションライトに電気容量があることを知りました。
 
舞台は危ない所という認識も無かったため、普通に機構の昇降ボタン押して、サスペンションライトを昇降していました。
昇降するときには皆に注意してもらうよう、掛け声が必要ですよね。
 
 
 
素人でしたから、当時は素手で電球替えたり(軍手してください)、色焼けしたカラーフィルタを使ったりもしていました。
綺麗な明かりを出すためにはカラーフィルタは交換するべきでした。
 
 
当時は全く意識しませんでしたが、大学で、照明設備の点検が大事なことを知りました。
 
公演前にはカラーフィルタ、電球(点灯チェック)、コード配線等の確認をして、万全の態勢で幕を開けましょう♪
 
 

 
部活動、頑張ったからこそ、とても良い思い出です。皆さんの活躍、応援しています!
 
 

 

営業部 営業課 橋本

 

 

 

HISTORY 5 -U型調光器のあれこれ-

2015年10月21日

皆さん、こんにちは!

この連載も第五弾となりました。

これも、記事をお読みくださる皆さんあってこそ。

ありがとうございます!

 第一弾

第二弾

第三弾

第四弾

第五弾→この記事です。

 

前回は関西を席巻していた宝塚少女歌劇が東京へ本格的進出の拠点

「東京宝塚劇場」の設計、施工秘話と当社の多分岐調光変圧器U

採用の経緯などをご紹介いたしました。

今日はそのU型調光器についてお話したいと思います。

 

当時の型録(カタログ)の説明は以下のようになる

U型調光變壓器ハ舞台照明用調光器トシテ最モ完備シタモノデアリマシテ、

抵抗式及ビ「サイラトロンレアクトル」式調光器ニ於ケル熱損失或ハ

力率低下並ビニ負荷容量ノ變化ニ依リテ調光度ニ變化ヲ及ボス等ノ缼点ヲ

除去シタ事ハCR型及ビD型調光器ト同様デ特ニ大規模ノ舞台照明設備ノ

調光装置トシテ適當ノモノデアリマス。」

それまでの方式とは一線を画し、

電力消費の無駄が少ないこと、許容容量内であれば、あらゆる負荷の調光が

可能であるという特長があった。

特に、東京宝塚劇場は他とは異なるレビュー作品の上演を目的として

当時の日本の劇場建築の常識を超えて設計された劇場であり舞台照明設備も

スピーディーな場面展開に対応可能な設備となっていた。

調光操作機は機械的遠隔操作により操作面積が小さく、便利になるほか

130回路余り、9場面のプリセットの操作卓は当時にしては大規模にもかかわらず

それを一人の人間が操作することが可能になった設備であった。

ちなみに、東京宝塚劇場は日本で初めて照明操作室を観客席側に

置いた劇場であり、緞帳の内側の操作室で明りを操作していたそれまでのスタイル

からの脱却は東京宝塚劇場が後の舞台照明界に残した業績のひとつ、

といっても良いだろう。

 

そうして、宝塚少女歌劇は杮落しで

「宝三番叟」「花詩集」で幕を開けロングランを続けた。

 

当社のU型調光変圧器は各方面に認められ、大阪、名古屋、京都の宝塚劇場、

有楽座他、明治座、御園座などの改修でも納入され、以後約30年に亘り

舞台用調光器はこの方式が採用された。

 と、ここまで書けば気になりますね。

U型調光変圧器が一体どんなものであったのかが。

そういうわけですので……

これが、噂の()1号機です。

調光器1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

調光器2

 

 

 

 

 

 

 

劇場が改修となった際ご厚意で当社に寄贈され、

現在もその一部が大田区の技術センター内に展示してあります。

静岡県舞台芸術センターSPAC 公演にて丸茂電機の照明機材が使用されました!

2015年8月19日

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会場の様子

 

5月に静岡の駿府城公園で行われました、静岡県舞台芸術センター(通称SPAC)様の

ふじのくに野外芸術フェスタ2015「マハーバーラタ ~ナラ王の冒険~」にて

丸茂電機の照明機材を多数ご使用頂きました。

今回は仕込み作業にお邪魔してきましたので、その様子をお伝えしたいと思います。

 

 

機材の仕込み作業は日中に行いますが、野外公演のため、

実際に明かりを出しての調整作業は辺りが暗くなった夜からスタートします。

 

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リング状の舞台に置かれたLHQ

 

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リング状の舞台に置かれたLHQ(夜)

駿府城公園の一角に、客席を取り囲むように建てられた円形のリング状の舞台。

その円の淵に弊社フラッドライトLHQが整然と並び、舞台上の出演者たちの衣装や

立ち姿を美しく照らします。

 

 

 

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舞台の周囲に建てられた仮設タワー

 

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仮設タワーに設置されたSPH(上段)とRIKURI(下段)

 

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仮設タワーからの明かり

各所に建てられた仮設タワーには弊社のRIKURIやSPH(パーライト)などが使用され、

夜の闇の中で出演者の姿を鮮やかに浮かび上がらせます。

 

 

 

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客席後方に置かれたFQH(2kWタイプ)

また物語の序盤、舞台奥にある林に出演者たちの影を映し出すという演出では、

客席の後方に設置された弊社FQH(2kWタイプ)のスポットライトが活躍しておりました。

 

 

 

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移動型調光器ゼムツアー

各所に設置された照明機器を調光するのは移動型調光器ゼムツアーです。

演劇における照明演出には欠かせない滑らかな調光を実現します。

 

 

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仮設タワーとリング状の舞台を外側から見た様子

 

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仕込みの様子

 

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照明スタッフによる明かり合わせの様子

 

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照明スタッフによる明かり合わせの様子

微妙な明かり合わせは深夜遅くまで続きます…。

 

 

今回は仕込みだけでなく、本番も観劇させて頂きましたが、

芝居の内容も分かりやすく非常に楽しめたことはもちろんのこと。

劇場など屋内での観劇とは異なり、普段公園として機能している日常の空間が、

演出や役者さんたちの演技や衣装、生演奏による音楽や美術、そして何より

照明の効果によって非日常の物語空間となる瞬間に立ち会えたことは

非常に貴重な経験となりました。

 

今のシーズン、各所でも野外劇が頻繁に行われているかと思いますが、

使用される照明機材にも注目して観劇してみたら、

違った見方ができるかもしれません。

 

 

営業部営業課

神谷

HISTORY4 -東京宝塚劇場の建設と新型調光器-

2015年7月31日

皆さん、こんにちは!
営業部の大竹です!
早速ですが、連載企画続編をお楽しみくださいませ(^^)

尚、今までの歴史はコチラをごらんくださいね

・第一弾

・第二弾

・第三弾

第四弾→この記事です。

当社の事業・業績に大きな影響をもたらす出来事に宝塚唱歌隊(現宝塚歌劇団)の結成がある。

阪急電鉄の前身である箕面有馬電鉄が電鉄の振興策として社長小林一三氏によって作られた少女ばかりの音楽隊『宝塚唱歌隊』は、

人気を博し『宝塚少女歌劇団』となった。

少女歌劇団は大正3(1914)にプールを改造して作られたパラダイス劇場での第1回記念公演を皮切りに定期的な公演を行っていた。

その華やかさ、清廉さは広く大衆の心をつかみ、観客は増加。

それに伴い、少女歌劇団も組分で公演を行うなど発展を見せていた。

昭和に入ると日本初のレビューショー『モン・パリ』を上演。幕無し16場のスピーディーな展開は斬新そのものであり

観客の評判を呼び、宝塚レビューの時代の幕開けとなった。

数々の名作は女学生からマダムまで幅広い層の人々を夢の世界へと誘っていった。

 

その勢いに乗るように、東京宝塚劇場の建設が計画されることとなった。

この劇場が宝塚少女歌劇団の東京進出の拠点となる為、

阪急電鉄の劇場技術者である井上正雄氏を中心としたスタッフは約1年間にわたり、

アメリカ、イギリス、フランス、ドイツと渡り歩き欧米の優れた劇場を模範として基本設計を行った。

 

従来の歌舞伎のような絵巻物式舞台面を観客に見せる額縁舞台の開口とは対照的な大レビュー劇場の建設である。

当然ながら舞台照明設備も画期的方式を採用することとなり当時、

弊社で試作をしていた“多分岐式調光変圧器U型”が井上氏の目に留まり採用されることとなった。
東京宝塚劇場

 

 

 

 

 

その納入までの道のりを創業者丸茂富治郎は『日本照明家協議会会報』(昭和3912月号)にてこう語っている。

「変圧式調光器を舞台に使えるように工夫して工場内で試作を続け、試作がほとんど完成した時に東京宝塚劇場の建設が始まって井上さんの大英断でその方式の採用が決まってご下命を得たのですが、私としては商売的には全く考えず只自分の考案が実った喜びと必ず立派なものを作り上げなければならないという責任とで緊張して試作品を詳しく調べ設計を再三調査して、もうこれなら大丈夫と自分で自分に言い聞かせて安心して製作にとりかかり、納期すれすれに完成することが出来た。東京宝塚劇場の此の多分岐調光変圧器装置は、ドイツがこれと異なる方式の多分岐式調光変圧器を製作したのより、私の方が二、三年早かった事は文献並びに当時実際に欧米を回ってこられた井上さんの実証によって知らせて頂いた。」

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